□中岳温泉
これも昔書いた原稿に手を加えたものです。

中年になってからこそ,山で温泉などというそれこそおじさんじみた趣味に走るようになってしまったが,かっては,山で温泉に漬かろうなどという気には,なかなかならなかったものである。
学生の身分で,温泉旅館に幾泊もするような余裕もなかったし,だいいち,今と違ってひとり旅の登山客は温泉旅館などでは歓迎されなかったのである。また,汚いなりをして,旅館の畳のうえに鎮座しているより,人気のない小屋でガソリンストーブがゴウゴウいう寂しくも暖かい音でも聞きながら板の間に寝転んでいるほうがよほど性に会った。

そんな,自意識過剰な頃に出会った温泉で記憶に残っているところといえば,まず,大雪山の山中にある中岳温泉である。

今から20数年くらい前の話しで恐縮するが,札幌の若い叔父の結婚式に招かれたのをもっけの幸いに山(大雪山系)に登ることにした。
旭川から入って,層雲峽の名の方が通りやすかろうが,黒岳から登って,旭岳へ抜ける行程を選んだ。時間が無かったとはいえ一番安直なコースである。9月上旬であったが,山では北海道の短い夏が終り,紅葉が始まっていた。

大雪山は御承知のとおり,中央の陥没部分を外輪山が取り囲んだカルデラであるが,北海道の山は,内地の山と違って森林限界が低く,標高1500m程度で,内地であれば平凡な薮山で終わるところが,足元を低く這いまわる這い松と紅葉の進んだ岩梅(つつじ科の一種)と残雪の三者がコントラストをなし,緑と白が綾なす箱庭のような景がえんえんと続くところとなるのである。今思えば,本州北の東北の山々などとも違って日本ばなれした植性を持っていたような気がする。やんぬるかな東西にロープウエイが掛けられているので秋に行く機会があれば,本格的な登山をするまでもなく機械の恩恵に預かるだけでも充分その感じは分かると思う。

黒岳の山小屋に着いたのは,午後4時頃であったろうか。そこら辺の岩場を縞リスがチョロチョロしていた。小屋番に幕営地を聞くとだいぶ離れているとのこと。熊がでると脅されつつ幕営地に向かい天幕を張った。なだらかな丘のような山の傍らに白水川の源流の冷た過ぎる1m程の小さな渓が脇を流れている。

ただ,誰もいない。
まったく,静かだ。
時々,周りの低い笹が,たださらさらさらさらと微風に音をたてるばかりである。人がいると煩いと思い,いないといささかの脅えを感ずるのは人間の身勝手というべきだろう。
日暮れてきたので,ストーブに火をつけ,水を汲んできて,焼きそばを作り始めた。ところが,しばらくすると,近くの低い笹薮ががさごそ音がする。さすがに,肌に泡立ったが,出てきたのは1匹の狐である。それまで,野生の狐をそんなに間近で見たことがないが,どうもまだ相当若いやつで,子供のような気配もある。どうやら,焼きそばの匂いにつられて出てきたらしい。少し放ってやると,ぱっと逃げた後,おそるおそる戻ってきて,焼きそばをつついている。もっとくれというような顔もするが,たいした持ち合わせもないし,正にきつね顔に狡猾な表情をみてしまう(ほんとにそう見える)人間様としては,ソーセージの1本もやってお帰り頂いた。

飯を食ってしまうと,やることもないので寝るしかない。食器をがばがばと小川で洗って,天幕に入ってしまうと外界が見えなくなるので結構恐い。寝袋に入ってもなかなか寝付けない。転々しているうちに巨大な山陰が動いて矢庭に明るくなったのて驚いた。
月が昇ったのである。月がこんなに明るいとは思わなかった。笹薮の山肌がしらじらとはっきり見える。野生の気持ちとはこんなものことを言うのであろうか,景色が美しいなどという余裕がない。暗い陰に,なにかがいるんじゃないかと闇にむやみな恐れを抱く。詩心はこちらに余裕がないとまったく生じない。

翌日,寝不足顔で,外輪山を辿り始めるが現金なものでなんともひどく美しい。北海道に生まれた身びいきもあるが,まだ九月だというのに自然がなんとはなしに,冬の厳しさを匂わせている風情も,そんな冷たい「匂い」がある。
お山ではそろそろ初雪が降る季節である。

御鉢と呼ばれるカルデラを右回りに半周して少しく外側に下るとそこに温泉が涌いている。鉢の内側にも湯気を上げている箇所はあるが,有毒ガスのため降りて行けない。中岳「温泉」といっても,宿があるわけでも湯船があるわけでもない。なんにもない。ただ,源流沿いに湧き出る湯があるだけだ。岩屑を使って,適当に湯を集める囲いを作り,水と湯を巧くまぜあわされるように水を導いて湯船を作った。湯船といっても河床が岩でたいして掘りようがなく,尻を漬けても下腹までしか湯が満たないというしろものである。寝そべると***が出てしまう。(その頃はこんなに深いところはなかった。)まあ,大日如来に見られるだけだとばかりに遠慮もしない。なんだか小学生の頃,授業をサボって人の行かない迷路のような学校の裏庭の燦々と陽が降り注いでいた隠れ場所で寝そべっていた気持ちが思い浮かんだ。
陽はきらきら輝いてはいるが暑くはなく,火山で草1本もない外輪山を背中に,反対側は見渡す限り低い笹薮のうねりだけである。何度も言うが,ずっとひとりきりである。
朝からひとりの登山者にも会っていない。なんともいえない気分であるが,時どき風に笹薮がさわめくだけでびくつく。後で思えば,もう少し南に下った神の庭あたりまでいけば,熊の恐れは現実にあったのだろうが,このあたりでは出るはずがない。北海道の短い夏休み期間中でもあれば,人も結構いて,こんな気分はとても味わえないだろう。
中年になって,辺鄙な山の温泉にずいぶん漬かったが,これを超えるものには出くわしていない。場所もそうだが,ひとりきりであったこととの相乗効果だろう。

その後に辿ったであろう山すじにあまり記憶がない。
ただ,下山した勇駒別から見上げた旭の穏やかな山容を覚えているばかりである。