96年にあるところに書き込んだものです。

栗駒山                 
温泉と登山   栗駒山登山顛末記
平成元年六月栗駒山に登る。地震(岩手・宮城内陸地震,2008年)でこの辺が大きな被害を受ける前である。

昭和六〇年頃から仲間うちの中年が集って年に数回山登りをするようになった。
もっとも、登山といっても登り口と下山口には必ず温泉のあることを必須要件とするという軟弱登山ではある。いそがしい連中が多いから、金曜日の午後または夕刻に出立して、一泊目の温泉宿には飲んだくれて辿りつき、翌土曜日に二日酔いの状態で体を山頂まで持上げ、下山口の宿では、また祝杯を干し、日曜日に帰宅するというパターンが多いが、驚くべくは事務所に客を待たせておいて、そのまま事務所に直行するというワークホリックもいる。もっとも、以上のような条件に該当する山(温泉)も少なくなってきている。飛行機を使えば、まだまだありそうだが、鉄の塊が空を飛ぶことについて根深い疑問をもつ者がいて、まだ、実現はしていない。
以下は、平成元年晩春の栗駒山登山記である。

当時は、東北新幹線の栗駒高原駅が存在せず、我々は、一旦仙台駅で東北本線に乗換えて、石越駅で、栗駒電鉄(2007年に廃線)に乗換え、同線の栗駒駅から車で一泊目の登山口の駒の湯温泉を目指した。
そんなふうに、登山口の温泉場までは相当の時間を要してもいるが、新幹線の栗駒高原駅からバス便のよくなった現在の方が観光地化の度合いは強くなっていると考えてよい。
栗駒電鉄の歴史は不祥なれど、東北本線の石越駅とターミナルの細倉駅までの間約25.7㎞を繋ぐローカル線である。窓から外に目を転ずれば、長閑な緑まだ浅い田園風景が広がっている。関東でいえば筑波鉄道、登山客も乗るローカル線といえば、松本から新島々を結ぶ松本電鉄に近い感じも少しはある。石越駅は東北本線と接続する駅(もっともホームを同じくしなく、東北本線の同名駅より歩いて数分のところに位置している。)であろうに、一見まるで、田舎のバスのターミナルもどきの駅舎であるのも鄙びた感じがしてなかなか良い。
我々が乗車した車輌も二両連結の小振りの車輌で、管理の悪い路線を、あたかも建て付けの悪き襖のごとく、ガタガタノロノロという具合で走っていた。
車外のあまりなローカルぶりに向いつつあった栗駒駅にタクシーなんぞがおるかいなと皆が心配しはじめたところ、われら三名の遣り取りを聞いていた中年の御婦人が、おもしろそうな口ぶりで確約してくれたので安心するような場面もあった。

栗駒駅から車で約四〇、五〇分のところに今夜の宿、駒の湯温泉がある。この温泉については現在記憶が薄れかけているが、無色透明な湯であったが、露天風呂はなかったと覚えている。翌日は、また、軟弱な虫が騒ぎ、宿の主人に無理をいって、車で登山口まで送ってもらった。もっとも、そうでなくては、朝七時起床などということができもしないが。登山口から御沢までは比較的なだらかで二日酔いの体にはちょうどよい足慣らしである。ところが、そこからは数年前の台風の影響とかで沢筋が荒れており結構な沢登りといっても過言ではなかったが、これを登って行った。

あいにく、霙まじりの小雨がぱらついてきた。寒くもなる。
沢を登り詰めて、しばらくすると、山頂直下の崖にへばりつくような様子の雪渓が見えてくる。雪渓といっても後立山の白馬や針の木の雪渓等とは比べようもないが、なかなかに立派なものである。標高差はどのくらいだろうか。時期的に山登りにはまだ少し早く、前後にはほとんど登山者もいないが、我々の前には、どうみても一世代上の男ふたりが、淡々と雪渓を直登していた。われらもなんとはなしに、そのままついていった。が、途中から足元が危うくなってきた。どうも、先行者はりっぱな皮の登山靴であり、こなたは軽登山靴といった足ごしらえの違いもあり、本当は技術の差もずいぶんありそうだったが、キックステップもできないままずるずるといった感じになり、この辺で滑落すると死なないまでも、手足の一、二本は折ってもおかしくない状況となったので、同行者に警告したところ、警告が利き過ぎたか、うちひとりが足を滑らせた。一応、小生が勢いを殺せたのでことなきを得たが、ひやりとした。今、ガイドブックを見ると六月にはアイゼン、ピッケルが必要とも書いてある。

一旦、雪渓下に戻り、本来の登り筋をさがしたが、時期が早く、広い範囲が雪に隠れていたためか見当たらない。やむなく雪渓が崖涯から剥がれかかっている左方の雪渓部分を詰めていったが、なかかな難儀である。雪渓の縁を伝い登っていったので、雪渓が崩壊する危険もあり、冷や汗をかいた。それでも一応尾根直下の崖下まで登れた(規模はさほどではないが西側斜面が氷河状の根雪にえぐられて頂上から西側が崩壊している)が、その先の登山道が見つからない。そろそろ同行のY君から「泣き」がはいったがめげずに探してみると、丁度西側の雪渓と東側の崖涯の部分を両壁のようにして細長い間隙(一mから二m程度)状に、なんとか歩める(?)部分があり、冷凍庫の中のごときであったが、これを伝いて、小さな祠に出る。
日本の山には大抵山岳信仰の跡がこういう形で残っている。更にそのまま進むと頂上であったが、途中は懸垂で体を引き上げなければならない所もあって、たかが標高1627mとたかをくくっていたのを手痛くたしなめられた。
頂上につくと、小学生の一団が弁当を広げており、緊張感もぶっとんでしまった。実は、栗駒山の頂上には、須川温泉からほとんど登りらしいものもないまま、九〇分位で登れる別のルートもあるのだ。
ベテランは常に困難を求める(笑)。

山頂で、携帯ストーブをつけて昼飯とした。雨はあがったが、曇りで眺望はよくない。午後1時頃か、湯浜温泉に向けて、われらだけの下山が始まった。
山の南西側斜面のしばらくは、なだらかで湿原状の部分もあって、木道ならぬエンビ様の敷物が敷いてあるところもあるが、滑ってすこぶる歩き難い。
しばらくいくとまた雪渓の下りになった。先程より幾分なだらかなので、機嫌良く飛ばしていくと、スッパリ雪渓の切れ落ちたところに出てしまう。時刻もそろそろ四時近くなっていたので、こんなところではあるが、さすがにビバークなんていう文字も頭に浮かんだが、すこし戻ってみると、雪渓から離れる径がみつかった。

いつしか深いブナ林となった。結局、湯浜温泉に辿りついたのは六時過ぎになっていたが、あいにく温泉は工事中のため入浴できない(スコップで掘り、浸かるという文字どおりの露天風呂もあるという「山渓」の旧い記事に期待していたのだが)という。
ここで文句というより怒号を発していたY君を引きずるようにして、湯の倉温泉を目指した。そこからの登山道は地図上でも、はっきりしないような道で、暗くなりつつある中をライトを頼りになんどか迷い迷い下って行ったが、結局湯の倉温泉(湯栄館,冒頭の地震で廃業した)にほうほうの体でたどりついた。既に八時を回っている。朝から10時間をはるかに越えている。
さすがに皆、口をきくのもおっくうといった感じであるが、一人、Y君のみは混浴露天風呂があることを知って御満悦である。湯の倉温泉は、結構「ランプの宿」(われらが杣部屋ではk氏が頭にランプをぶつけて灯油をひっくりかえしたのではあるが)で有名であるが、湯船の方は川縁にコンクートで囲いをしただけという、まだ、山の湯という雰囲気が存分にある。
渓流沿いのコンクリートで湯水と川の水を隔てただけの湯(在りし日の露天風呂)は、体を動かすのが辛いくらい熱い。辺りは木も生い茂り、月明かりも満足にささなくひどく暗い。宿からはヘッドライトを灯して行くようなところだ。
もっとも、翌日知ったことであるが、この宿のすぐ傍まで林道が通じており、折りからの秘湯ブームもあって、俗世間のにおいが交じり始めているようだ。
当日も宿泊客は、我々のほかに1、2組みだけのようであったが、先程の渓流沿いの風呂の先客には、話し方の感じからすると、どうみても水商売風らしい女とその客らしい男がおって不愉快極まりない。もっともY君の後の報告によれば、暗闇に乗じて近寄り、痴態を窺ってきたというのではあったが(笑)。
ここで夕食にでた水菜(山菜)はなかなかうまい。
栗駒山はなかなかお薦めの山である。