南アルプス南部

前期修習と実務修習との間にある夏休みを利用して赤石から聖岳を縦走した。
今はどうなんでしょう。あの頃の南アルプスの南部というのは,夏休の期間なのに,人がろくにいませんでした。
あるとき書いた原稿が残っていたのでそれを基に書きました。
1977年版の昭文社「塩見・赤石・聖岳」の地図を見ながら書いているが思い出せないことばかり。
括弧書きは今回書き加えた雰囲気ぶち壊しの散文です(笑)。
そのうち珍しく写真があるので追加しましょう。

□ 荒川岳-赤石岳-聖岳
大昔の話です。ただ,山そのものの記憶がおぼろげで弱った。
あんなに憧れていた峰々によじ登れば,心の屈託が幾分でも和らぐかと思いなして,7月の終わりに伊奈谷のとある田舎じみた極く小さな駅舎(「伊那大島駅」でしょう。その後改築されたようですがサイズは同じくらいか)に降り立った。車中,心配していた雨はなんとか通り過ぎたようだ。他に,降りた登山客はいなかった。
バス便がないので車を拾ってと思って,タクシー乗り場と小さく表示された立て看のある所に行くと下山してきたふたりの登山客からこもごも警告を受けた。
興奮した口調の彼らによれば,予定していた登山道の途中の渓流(小渋川ですね)が雨で増水して徒渉箇所のいくつかが非常に危険であるらしい。下山してきた彼らも腰上まで急流に浸かって身体がもっていかれかかり危うかったということ(本当は膝くらいでも危ないときは危ない)だった(この渓流は流れが速く危ないので有名です)。

当初の計画では,車で湯折または小渋の湯まで行き,そこから小渋川を遡上し,広河原小屋まで行こうとしていたか,もう少し先まで予定していたかはかなり記憶が曖昧だ(笑)。
しかし,やむなく登り口を変更することとしたが,三伏峠-小河内岳-荒川岳-赤石岳と北方の稜線へ大迂回することになり,予定していた縦走が相当長くなる(1泊以上長くなった)が已むを得ない。但し,後から考えれば,塩見岳を直接見ることができたのは儲けともいえる。

登山口から標高2500m程度の鞍部までの記憶は今あまりないが,ただ眺望の効かない笹薮の急斜面を汗まみれになってひたすら登っていったら,ひょこりと木々の茂る鞍部(烏帽子岳の鞍部か)に飛び出たという記憶しかない。ただ,御褒美にか容貌怪異な塩見が見えた。
登った峰々は,今はどうか知らないが,当時は人があまりこない奥深いところだった。
山が深く,一旦分け入るとなかなか出てこられないのだ。小屋も小屋番がいるだけで益しというべきもので,シュラフ持参で自炊があたりまえ,まともな小屋も極めて少なく避難小屋泊りが多くなるという具合である。水場も多くなく,あっても幕営場所から遠く,行きは急降下,帰りは急登の往復1時間などというところもざらにあり,一日がかりの登山の最後がこれではへこたれた。8月中だというのに,どの小屋でも最大数人程度の登山客しかいない。

約1週間の山歩きということになると,当然,食い物が問題である。問題は重さというより嵩高で,粉食や乾物にしても古びた帆布のザックには,まともに朝昼夜の3食分は入らなくなる。やむなく加藤文太郎を気取って昼はカロリーの高い豆の類ですませることにした。
南京豆やカシューナッツ,アーモンド等を持参した。だが,これは失敗であった。加藤文太郎は,確か日干し小魚を鯨(?)油で固めたというような独特な携行食を作っていたと読んだ記憶があるが,豆ならむしろ油脂分の少ない大豆等にすればよかったと気が付いたのは,既に3日目の昼時からである。特に,カシューナッツがいけない。ポケットから取りだして口許に持っていくと,おもわずうっと吐き気を催してしまう。ついには,腹が鳴っても豆を見る気にもなれない。飴玉の類で我慢せざるを得なくなったのは誤算であった。
今,思えば甘納豆を持参すべきであった。

夕飯の献立(これは山登りの話か食い物の話か,その頃からすでに美食?癖の兆しが:笑)は記憶が定かではないが,旨かったのは豆腐(こんなところでも碾いた大豆と苦汁から作ったハウスのホントーフが旨かったこと(笑))で作った麻婆豆腐くらいか。残りは,おきまりのインスタント食品である。これだけでも1週間分という嵩は大変なものになる。

山が深く大きく,初めの2,3日のうちの意気込みはどこへやら,3000m級がゴロゴロしている峰を攀じていくうち,ラジオラリア(石)で赤く見える裸の山(赤石岳をもって回って表現している)に登る頃には,Z状に切られている小砂利だらけのきつい太陽から隠れるところのない踏み跡を1歩前に甚だゆっくりと足を出ては,じわりと踏みしめ,また,ゆっくり一歩を踏み出すという具合に歩いているのか休んでいるのか判然としない状態になってきた。
背中から陽にじりじりあぶられ,日の光が激しく肌に突き刺さる。マルキルの最も大きな水筒に入れた水があれよあれよという間に減っていく。登るという行為自体が,内臓のストレス(胃が痛くなった)となりうるということがよく分かった。

その夏は暑く,雨はまったく降らなかった。うっかりTシャツで過ごしたのが運の尽きで,直接,1週間太陽に曝された皮膚は焼けただれて酷い火傷となってしまった。
赤石(だったかな)の避難小屋は,山頂にあって風をまっこうから受けるようなおんぼろな建物で,微塵がものすごい。小屋のなかを少しでも動き回るとブワーとほこりが舞い,息も満足にできない。あたかも小麦粉のような細かなほこりが舞うのである。弱り果てて同宿の客と掃除をと相談したが,水もないし掃く物もない。已むなく敷けるものなら新聞紙でもなんでも敷いて極力ほこりを立たせないないようにしてシュラフに潜り込む。3000mを越えた夜だというのにやけに暑い。

また,この山脈の北のはずれの峰(北岳のことですね)には,3000mを越えるあたりの岩の間には,全長10cmにもならない桔梗系の鳳凰沙参(ほうおうしゃじん)という可憐なうなだれた紫の花が咲くが,このあたりには紫系の花はあまり見ない。ちなみに沙参とはツリガネニンジンのことをいい,花の形は相当違うのだが同じ仲間である。荒天の際に,風雨に叩かれつつ,霧に濡れているこれを見ると,極め付きに美しいものに出会ったという感じがするのです(これは今でも記憶している)。

兎(岳)への登りは,ところどころで,崩れて壁になっているところに張り出している這い松の上やその根の上を歩かされた。足元の這い松の枝の隙間から,見事な空間が広がる景色は,なかなかにスリルがある(要するに手摺りのない空中散歩ですね)。

兎の避難小屋に辿りついた。

今の兎岳の避難小屋は,このようなものであるらしいが,我々が泊まった頃よりは外壁がコンクリートやガラス窓になっており,内壁もポリの波板になるなどしてきれい!になっている。

日没時に外に出る。明日の荒天を意味するどす黒く紅い日没(なんと表現しようか)を背景に,山肌を避難小屋位の大きさの雲とは思えない存在感のあるものの一群が,まるで巨大な生き物(巨大な綿飴ですね)のように地表すれすれを下から早足で駆け上っては,音もなく私に衝突しては怯んだ私を置き去りにして,稜線を乗り越えて足早に下って行く。言葉では説明ができない美しさと恐ろしさと快感が奇妙に調和して鳥肌の立つような感覚であった。

でも,珍しくもここの小屋で髪を長くした(この辺既に記憶曖昧:笑)美しい1人の客と同宿することとなった。他に一人,男の登山客がいるだけである。小屋は石を積み重ねて壁(といえるかどうか)とし,天井はベニヤ板の上に石を乗せて飛ばされないようにしてあるだけという代物で,凡そきたならしく,ネズミは出るは,得体の知れない虫が這い回るわで,この女人の存在が非常に調和しない。

もともと,きれいな生き物には臆する方であったので,特に,積極的に話かけるということもなかったが,なにせ3人だけであるから,なんとはなく,飯を作っている間に世間話をするという感じになったのだが驚いた。美しい口許から出るのは,すさまじいばかりの静岡弁である。静岡弁がこんなにすごいものとは思わなかった。話している内容がよく理解できない。思わず同宿の男と顔を合せて笑わないようにするので精一杯という感じで,いくぶんあった若い男のけしからぬ気分(比喩です:笑)などもどこかへ吹き飛んでしまった。

尤も,ネズミが走り回る音を聞きながらシュラフに横になっているとき,あっ,これはなるほど賢い娘の防衛戦術だったわと気が付いてにやりとしてしまった。翌朝,遥か遠き山々を望んでいるこの女人のすらとした後姿を白黒フイルムに収めたのは若き日の気紛れであろう。

(実は,後ろ姿の写真があるのですが,アルバムを見直したら,1cmくらいの写真でかろうじて性別がわかる程度のものでした。)

(山から下りた時には,薄いズボンもTシャツも腕もボロボロであった。それからだ,真夏に山登りするときには捨てるような長袖のワイシャツを着ていくようになったのは。
そして,山登りも散文になった(笑))