ふるさと 月寒
記憶もはっきりしない4才時に札幌の月寒から父の転勤で松戸に転居したというのに何故か札幌が懐かしい。
最近,私が幼少のみぎり(笑)に撮影されたビデオを見つけた。
確かに父親が残した写真にはそっくりな風景が残っている。残念だが元々リンクしていた映像がなくなっている。音声なしのこれしか見つけることが出来なかった。
その頃は札幌も大雪が降ることがあったようで雪の重みで潰れた家屋の写真↓なども残っている。
もっと古いビデオというより映画写真がNHKにあった。
北海道の昔 1,大正末期 ~ 昭和初期とある。
父親が生まれた頃だから,まだ彼は士別に居た。
上士別の学校の明治43年頃の写真がここにある。祖父德市が通ったのもこのような学校だったに違いない。
なお,記憶はほとんどないが,寒い地方を訪れると懐かしく感じるのはそのせいかと。
閑話
□ ルーツ探し
北海道人はルーツ探しをする者が多い。ほとんどが明治時代に北海道へ遠隔地から入植した者を祖先にするからだ。
私も,大学生の頃,父に頼まれて戸籍を辿ったことがある。
家系簿業者という生業があるが,ご依頼があれば戸籍を辿るくらいはやりますよ。弁護士にやらせるとちょっと高いかもしれないが(笑)。
私の生まれは,札幌市豊平区月寒という今でこそそこそこの地であるが,生まれた頃の写真を見る限りでは開拓部落に毛が生えた程度(笑)であり,また,父と祖父は上川郡多寄村(現在の士別市,名寄市の南方)生まれである。
拝み小屋
明治の頃の北海道の開拓民の小屋はこんな物だったらしい。
道理で親父様は廃材で家が作れると自慢していた根拠が分かった。北海道へ移住した祖父長作の家造りや修繕を手伝っていたのかもしれない。
NHK「日本 映像の20世紀」 北海道 前編
古い士別の映像がここにあった。但し、原生林を切り開いた先祖がいたとは聞いたことがない。
少し新しい年代の映像は,【士別市】士別歴史探訪にあった。私が大学生の頃に北海道漫遊旅行を試みた際,士別駅に降り立った際,親戚(父の元実家)の住所を示して駅員に場所を聞いたところ,駅前の直線道路の北の方を示して,あそこに○○が見えるでしょう。あの辺ですよという言を頼りに歩き出したが,歩けども歩けども辿り着かないじゃないか,そういうところである(笑)。また,旭川から網走に特急で5,6時間もかかっていて,なんて北海道は広いんだと思ったもんだ。
「士別の水と土と心」も参照。
獣害事件で有名な三毛別は,士別から直線距離で西方に50km程度離れているだけ,曾祖父は以下のとおり獣害事件の約9年前に士別に転居したわけであるが,当時はともかく我が家には言い伝えは残っていない。北海道では良く有ったことなのだろう。調べてみると士別付近でも知られていない獣害事件がいろいろ出てくる。
ざーっと調べてみると大正以降も士別付近の熊の獣害事件はこれだけあった。
大正6年4月 温根別熊食害事件
大正9年4月 温根別本線六線熊被害
大正12年 温根別模範林熊人食い事件
昭和3年11月 士別「仔連れ人喰い熊事件」
昭和4年8月 温根別北部の山中で測量隊員四名被害
昭和4年10月 添牛内で別の測量隊員3名被害
昭和5年7月 多寄村(士別市旧名称)熊被害
昭和6年11月 温根別村近郊人喰い熊事件
曾祖父長作が,明治29年6月に,北海道へ入植した地は,雨竜郡雨竜村蜂須賀農場 (%1) であり,そこは蜂須賀家のお殿様(蜂須賀茂韶)が地主であったようだ。それから明治39年に士別へ転居した理由は伝わっていないが(なお,士別は,明治32年が最後の屯田兵の入植と言われ,33年に鉄道が引かれている。明治37年には水害で痛めつけられた奈良県吉野郡から大規模な入植があったという。)蜂須賀牧場は,大正9年から大規模な小作争議が行われたことをみると,地主の小作人に対する収奪に嫌気がさしたのかもしれない。
%1 学生の頃は,雨竜郡の暑寒別岳登山や雨竜沼湿原に憧れていたからなんらかの影響があるのかも。
そして,曾祖父は,戸籍によれば,富山県東砺波郡利賀村大字九里ヶ當脇谷で生まれている。五箇山の山一つ越えた東方又は剣岳の西方50kmといえばなんとなく地理が分かっていただけるだろうか。wikiによれば,五箇山は、富山県の南西端にある南砺市の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた五つの地域を指す。とあって,利賀村は五箇山の一部落であった。
嘗て,「裁判手形法」を著した坂井芳雄弁護士と仕事がらみで他の者たちと夕食をご一緒した際(此方は若造である),坂井先生も富山県出身と聞いて,気安く私の本家は東砺波郡利賀村脇谷だとやったら「利賀村あ,そんなど田舎は知らん」と口の悪い先生に言われたものである(笑)。
現在の利賀村を含む南砺市の年間平均気温によれば,2月の最低気温は3~-2度で,士別の平均気温は現在ですら-3.4~-15度であるから約10度も低いところへ移住したものだが,-15度の地へ移住するには相当な勇気が必要だったに違いない。嬬恋村の高地で初めて-12度に出くわした時はこれは寒いと驚いたほどであるから昔の構造の家屋で-15度の生活をするというのはなかなか厳しいものだったであろう。奈良県からの移住者に脱落者が多かったのも宜なるかなである。
明治の頃の富山県砺波郡から北海道への移住の経緯については,このサイトが詳しい。
水害不況,仏教圏を原因とする子だくさんとニシン肥料の掛け買いによる借金苦のようだ。曾祖父も悩んだ挙げ句なんでしょうね。容易に想像が可能だ。
そんなど田舎は,庄内峡沿いの大牧温泉(船でしか行けない温泉で有名)の大分手前の分岐を右岸に沿って南下し,途中で西(北?)の山へ分け入って行くとんでもない秘境である。Googleマップでも「脇谷の清水」とか「脇谷のトチノキ」という場所が見当たるところのさらなる山中である。
youtube に up されていた国道471号線の映像に「脇谷の清水」が写されているが,この更に北方の山の中である。この映像を見ればとんでも秘境であることが分かる。この国道のどこから車で北側に分け入ったかは記憶が曖昧であるが,「神明宮」の近くではなかろうかと思う。
昭和36年頃の「利賀村秘蔵映像」というのが,ここにあった。酷い出来であるが映像だけを見てください(笑)。利賀村の秘境さかげんが分かる。
利賀村秘蔵映像#2これは,昭和45年頃と推定されている映像である。
これも同じ。利賀村秘蔵映像#3 ナレーターが,都会もんの上から目線が軽薄だが,良い映像がある。
そして,約50年前の大学生が父に命ぜられて同行し,たどり着いた部落は,かやぶき屋根の傾いた誰もいない廃村と化していた。ある廃村巡りサイト(「村陰弥太郎の集落紀行」)によれば,大字栗当(=九里當)の無人化は昭和54年だそうであるが,我々が赴いたのが昭和48年ころのことだから他に住んでいた住人がいたかもしれないがそのような気配はまったくなかった。
しかたがないので山から下って,麓の雑貨屋で駄目元で脇谷部落に居た**家の現在を尋ねたら麓の部落に**家があるというのであった。
尋ね当てた**家では,最初,我々北海道の分家の存在については疑われ(だいたい我々は藤本姓ですし)その後,お年寄りが戻ってきたところ,父の顔をみて,ああ,誰それにそっくりだという話になり,なんとか疑念を解いてくれたものである。その後に聞けば,前年,親戚を名乗った男に金をだまし取られたということもあって疑われたらしい。オレオレ詐欺の源流か(笑)。この本家の長男氏は,上京し武蔵野の市長となっていた。
麦屋節
源平の合戦(倶利伽羅峠の戦い)に敗北した平家一門が落ちのびて庄川上流の五箇山に隠れ住み、刀や弓矢を持つ手を鍬や鋤(すき)に持ち替え、麦や菜種を育て安住の地とし、在りし日の栄華を偲んで農耕の際に唄ったのが麦屋節の発祥と伝えられているそうな。これが五箇山から利賀村の方に残っている。
テンポを速くした軽薄な踊りは極く近世の物らしい。
これは典雅な踊りだ。
閑話
利賀村の2019年現在の人口は約500人だそうです。どんどん減っていますね。
冬の利賀村は大雪のようですね。でも,利賀村のパウダースノーって有名なんですね。
近けりゃ行くのに(笑)。でも,戸隠辺りのスキー場の雪の雰囲気↑が似てる。大人になってから初めてスキー靴を履いたのは戸隠辺りでしたが,ホントにパウダースノーなのかな(笑)。いや,ここには一度行ったきりですので記憶が曖昧です。その後は車山高原スキー場の斜度38度のスロープばかりを滑ってました。ここのこぶは制覇できなかったな。
利賀村=秘境というイメージでいたが,富山県人にとっても未だにそうだが。同村にとんでもフレンチができたらしい。レヴォ という。食べログで 4.5 をたたき出している。驚きである。我が国における「テロワール」の走りだろうか。
もう一軒
源流居酒屋本店
こんな田舎に面白い居酒屋が出来た。
富山県南砺市利賀村百瀬川317
東京者の釣り人夫婦が利賀村の古民家を手作り改造して大きな居酒屋を作った。
この古民家改造サイトが面白い。
偶々見ていた古民家改造動画サイトが利賀村のことだったので驚いた。我が祖先の廃村から更に奥地だ。脇谷の清水から直線距離で7~8kmですね。こんな人口五百名のご老人しか住んでいないようなところで居酒屋の需要があるのだろうか。民宿は結構あるみたいだな。釣り宿としては釣れる渓流があるのか。釣り仲間の基地。登山の麓の山小屋もどき。合唱団などの各種合宿など宿泊施設。全国から同サイトのファンが来るのかな。等々先行きが不安だ(笑)。
利賀村というところは都会人を魅了するところがあるようだ。
温泉もある!
利賀村には,この前の能登の地震のために修繕のための休館しているが温泉がある。同上居酒屋より更に4~5km上流だ。
天竺温泉の郷
〒939-2513 富山県南砺市利賀村上百瀬482
過疎化の村なのに不思議だ。まあ,温泉ならね。秘境でもやっていけるだろう。
よく調べると利賀村には他にも温泉がいくつかありますね。大牧温泉があるくらいだから当たり前か。
富山の山奥に興味のある方は
利賀村には,東京からだと車で,松本,安房峠経由で7時間半で着く。途中にたくさんの温泉があるし(笑),上高地や奥飛騨温泉郷など観光地もたくさんある。
我が廃村地から10kmも西南に行けば五箇山もある。よく調べれば観光地だらけじゃないか(笑)。
とんでも秘境を誇りにしていたのに(笑)。
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なお,宿泊させてもらって本家を見学させてもらったが,1部屋全部が仏間の部屋があり,その北面全部が観音開きの仏壇というより須弥壇になっていたのには驚いた。さすがは,富山は仏教圏で有名な地だと感心したのと同時に北陸から入植する者が多かった北海道の寺の立派なことや葬儀も大仰であること(%1)にも得心がいった。
%1 昭和59年には札幌市の北の方に巨大な斎場ができて,焼き場も遙か向こうまで順番を待つ棺がならぶようなところで,「焼き上がり」も館内放送されるというように風情もへったくれもなくなったが,それまでの月寒の斎場は,焼き場が露天にあり,坊さんの読経も冬を除けば炉の前の屋外で行われたから,10月頃の葬儀に千葉から参加した子供(私)は非常に寒い思いをした。
そして「焼き上がる」_言葉使いが露骨です(笑)_までは,だるまストーブのある小部屋で男たちはスルメなどを焼きながら酒なんぞを飲んで待っていたなど昔の北海道はこんなものなのかと思わされたものである。
また,寺も相当に大きくその本堂も内地では考えられないほど広く,通夜ともなれば,多数の親戚縁者が道内各地から集まり,夜ともなれば,本堂の周りには女子供が寝る布団が敷かれ中央では男たちが酒を飲み交わし,時々仏に声をかけに寝棺まで参るという具合に,暖かくしめやかな通夜が文字通り朝まで続くというようなことが普通にあった(今もそうである)。
利賀村からの帰りは,開通前後の乗鞍スカイライン経由だった(「と思う」と書いたが同スーパー林道の前身である「奈川安曇線」だったようだ。)。50年くらい前の車には大変難儀な道だった。なんどもオーバーヒート防止のためにボンネットを開けてエンジンを冷やし冷やし上ったものである。頂上近くには濃い霧が出ていて,私が車の前を走ってナビゲートをしたものである。スカイラインとは名ばかりな道であった。面白かったが。また,ある箇所から乗鞍観測所を写した写真↓が出てきたが,写真を撮ったところからは同観測所と標高(2770m)は同じ高さの程度に見えるからとんでもないところを走ったことになる。未舗装林道であり,今では一般車通行止めでもある。登山を始めた息子の言うとおりのとんでも道路を親父様は走ったことになる(笑)。